今日は臓器移植法の改正案について、少しお話をしたいと思います。
この問題と私自身の関わりは、前回、臓器移植法案が国会で審議されて成立した際に、私は当時の厚生委員会の野党側筆頭理事を務めさせていただきました。厚生大臣は小泉(純一郎)さんだったのですが、大変忙しい大きな課題を抱えた厚生委員会でした。
例えば、介護保険法を制定する。そして、医療費の自己負担を1割から2割に引き上げる健康保険法の改正。多くの課題がありましたが、私としてはしっかりと審議をして結論を出すべきだという考え方に基づいて、この臓器移植法案も長く結論の出ないまま置き去りにされていたものを、委員会でしっかり審議したうえで成立させたという経緯があります。
もちろん、この法案は個人の死生観に関わる話であるということで、最終的には党議拘束を解いて、1人ひとりの議員が判断をして投票をしたわけです。
私自身は、元々の原案が脳死は人の死であるということを法律上明記して、その上で臓器移植を一定の条件の上で認めるというものでしたので、この原案には賛成をいたしました。
しかし、その後議員間で協議した結果、脳死は人の死であるという考え方を一歩後退させた現在の法律が案として出て参りました。私としては、脳死は人の死であるということを明確にしない状況の中で、臓器移植を認めるというのは、法制上大きな欠陥があるという認識で、すでにいま法律になっている脳死は人の死であるということを曖昧にした法案に対しては、反対をしたわけです。
ただ、早く臓器移植が実現できるようにということで、法案の採決の条件を整えるために、かなりの努力をさせていただいた記憶がございます。
さて、今回、その臓器移植法の見直しが議論されています。残念ながら、期待したほどの臓器移植の実例は出てきません。そして、いまだに海外で臓器移植を受ける方が多い。これは、大変費用もかかりますし、日本人として、日本で臓器移植をもっと活発に行うための努力をしないまま、海外の人々の臓器を移植するということに対して、何となく釈然としないものがあるのも事実です。
これからは、海外での臓器移植も困難になることは明らかで、そういう中で、特に現在の日本の法律では禁じられている子どもの臓器移植に道が閉ざされてしまうという問題があるわけです。
今回4つの案が議論されています。私は、従来の経緯から言うとA案(脳死は人の死であるということを認めたうえで臓器移植を行うという考え方)が私の考え方に近いのですが、ただ、このA案に固執すると法案修正はできないまま終わってしまう、現行法のままに終わってしまう可能性が極めて高いと思います。
そういう意味では、A案に必ずしも固執することなく、D案(いまよりは幅広く、子どもの臓器移植も含めて行えるようにする。しかし、手続きはきちんと厳格に行うという考え方に基づいた案)を、是非この国会で選びたいものだ、法律として法改正を成し遂げたいものだと個人的にはそう思っています。
私はいま、幹事長という立場ですが、この法案については、1人ひとりが自ら考えて投票するということですので、個人的な意見として申し上げさせていただきました。
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私はA案ではなくD案を選ぶという岡田さんの考えには反対です。
今の脳死移植がほとんど行われていない状況を改善するためには、
A案しか選択肢はないと思っています。
D案は子供の臓器移植を可能にするということでは他の案に比べいくらか意味はありますが、
子供の意思決定を認めることなど問題があると思います。
また、D案では大人の脳死移植の改善には全くなりません。
何万人もの臓器移植待機患者はそのままです。
これでは日本人が大金を支払い海外に渡航移植する問題も解決されないでしょう。
この法改正の機会を逃せば、日本は脳死移植の分野で世界から孤立してしまいます。
岡田さんには信念を曲げずにA案の成立を目指していただきたいと思います。
投稿情報: aren | 2009/06/09 10:12
以下、民主党や鳩山(次期)首相、岡田幹事長の考えとは異なりますが・・・
人間は霊魂である、というのが仏教とキリスト教の考えです。
宗教的には、肉体は二次的なものとされています。
霊魂が肉体を離れれば、残るのは死体であるとも言えます。生物学的な機能が技術的に維持されていても。
しかし、愛する者がその身体にまだ霊魂を感じている限り、法律で「死である」と宣告することは、法律の範囲を超えた行為になります。
現在の問題は、拉致問題と同じように思われます。
「日本で一番不幸な人間は拉致被害者だ!」と叫ぶことで経済的利益を受ける人がいます。
「脳死は人間の死だ!」と叫ぶことで経済的利益を受ける人がいます。
もちろん、誰が一番不幸であるか、何が人間の死であるかは、人間が決めるべきことではありません。
しかし、背後にそういう経済的打算で動く勢力があれば、拉致問題も脳死問題も「良い解決」に至ることは難しい。
昔の日本人は身内に不幸な者がいても、公益・公序を優先して、利己的な主張は控えたといわれています。
アメリカ式の個人主義が変形して日本の社会にはびこり、しかも、反体制・反伝統主義と結びついて、エゴイズムの延長で自分たちの被害や利益だけを大声で主張する日本人が増えました。
言論で主張するものはまだましだが、ナイフを振り回すことでしか自己表現できなくなる若者も出てくる。
「日本で一番不幸な人間は拉致被害者だ!」と叫ぶことで経済的利益を受ける組織・グループがいる限り、問題は解決しません。「国内の殺人事件被害者と同じだけ、拉致被害者は不幸です」と言えば、もっと国民の共感を呼ぶでしょう。
「脳死は人間の死だ!」と叫ぶことで経済的利益を受ける組織・グループがいる限り、問題は解決しません。「脳死を人間の死と判断してもよい場合がある。ケースバイケースだ」と言えば、もっと国民の共感を呼ぶでしょう。
アメリカでも北朝鮮でも多くの若者が軍隊に入って、国家のために死の危険をおかしています。
平和憲法に守られて日本人は、「自分たちが一番不幸だ!」、「自分たちの生命が一番大事だ!」と主張しすぎるように思います。(もちろん、当然、主張すべき場合もある)
日本で一番不幸なのはむしろ「秋葉原などで、刃物で異常な若者によって生命を奪われた人たち」であり、日本で一番自分の利益を主張することが許されるのは、「無実でありながら、死刑や無期懲役を裁判で宣告された人たち」かもしれない。
以上、民主党や鳩山(次期)首相、岡田幹事長の考えとは異なりますが、よろしく・・・
投稿情報: 一国民 | 2009/06/09 11:47
「私としては、脳死は人の死であるということを明確にしない状況の中で、臓器移植を認めるというのは、法制上大きな欠陥があるという認識で、すでにいま法律になっている脳死は人の死であるということを曖昧にした法案に対しては、反対をした」
との岡田氏の言葉についてですが、言うまでもなく、人の死ということは、単に法律の定義上の問題であるだけではありません。様々な観点から人の死ということは考えられる必要があります。
そして例えば、脳死状態だと宣告されながらその後何年も生きている人(特に子ども)が現に存在するのですが、そのような人の存在があってもなお「脳死は人の死である」であると言っていてよいのでしょうか。法律論を振りかざすばかりでは法匪との批判を免れません。現実をもっと真摯に、かつ謙虚に受け止めるべきではないでしょうか。
私自身は、今国会で議論されているものの中ではC案が最もまともだと思います。移植医療はもともと倫理的に問題の多い医療であり、よりましな医療によって代替されるべきだと考えるからです。
投稿情報: vox_populi | 2009/06/09 13:17
脳死は人の死であると、自分本人については同意できる人が多いと思います。
ただ、小さい子どもの脳死は事故だけではなく、風邪からも至る場合もあり、外傷もありませんし、その姿はただ、眠っているようにしか見えません。
そこで治療終了を言い渡される親御さんは、到底受け入れらないと思います。
実際 例外として脳死を人の死と認めない人に配慮するといえば、例外が半数を超えることになりかねないと思います。
人の親として、D案で決まることが一番妥当だと思います。
投稿情報: きな | 2009/06/09 14:52
2007年11月26日に夫が無念の死を遂げたとき、 医師から「どうなさいますか?」と聞かれ、働かない頭で「どういう意味ですか?夫の臓器を移植できるのですか?」
と問うと医師は「ドナーカードがありますか?無いなら不可能です。そういう意味ではなく解剖を希望しますか?」と言われ「解剖は嫌です」と諦めたのですが、夫哲の臓器を移植することにより、夫がどこかで生きていることを望んだ自分に気付きました。
その後、臓器移植について調べたところ、事故や病気によって心臓が停止してしまった場合、臓器を提供することができます。そのために必要なこと。
◆ その人が生きている間に「心臓が止まったあとに臓器を提供します」と自分の意思を伝えていること。
◆ その気持ちをドナーカードなどで表していること。
◆ もし、その人が「臓器を提供します」と気持ちを伝えていなかった場合でも、その人の家族が同意すれば臓器を提供することができると書かれているのを見て驚きました。
夫の臓器を提供出来たこ事になります。
何故、もっと知識がなかったのかと後悔でいっぱいです。
少なくとも誰かの体の中ででもいいから生きていて欲しかったです。
投稿情報: 伊藤左紀子 | 2009/06/09 21:29
初めて投稿させていただきます。
自分のような者のつたない意見を岡田幹事長に直に述べることのできる場を設けてくださったことに深く感謝いたします。
今朝、神戸新聞で「2歳の子供のポルノ写真を売った」として23歳の母親が逮捕された、という記事が載っていました。
とても信じがたいことではありますが、全国でそのような事件が数件あるそうです。
子供たちが、愛され守られるべき親から虐待を受け、命を奪われるようなことも少なくない現状を考えますと、15歳もしくは12歳以下の子供の臓器移植に関しても想定外のことがおこりうるのではないか、と懸念いたします。
岡田幹事長の、A案が一番近いお考えであるとした上でD案を法律として成立させたいとするお考えを、一国民として強く支持するものであることをお伝えしたいと思います。
ありがとうございました。
投稿情報: 猫の目 | 2009/06/10 13:49
臓器移植法についてホームページでお考えを述べておられことについて、誠にご立派であると感じました。ほとんどの議員が態度を明らかにせず、HPで触れているにしても「ぎりぎりまで熟慮して」などとしているときに、脳死を人の死として認め、はっきりと態度を表明されていることに敬意を表します。
しかしながらD案では、ドナーとなられる方が増え、移植を待つ患者が救われることはないと思います。
「本人の書面による確認」を引き継いだままでは、15才以上の提供は少ないままかわりません。そして15才未満の提供についても、「提供の時だけ脳死を人の死とする」という現行法の枠組みを残したままでは、家族のご決断による提供は、恐らく数年でひとり出るかどうかにとどまると思います。
「A案に必ずしも固執することなく、D案を」と述べておられますが、D案になっては、患者にとって救われない困難な状況は続くばかりです。12年前の法制定の時「3年を目途に見直す」としながら、その後9年後の現在に至るまで放置されてきたことを考えると、仮にD案が採択されたら、一体次の改正はいつになるのか、絶望するよりありません。
はっきり申し上げてD案は欺瞞です。
何もかわりません。
以下、各衆議院議員に宛てたメールを載せます。お読みいただければ幸いです。
東京三鷹市に住む上田昌広と申します。
私の娘さくらは2年前アメリカで心臓の移植手術を受け、おかげさまでこの春から元気に小学校に通っております。
日本では移植を受けることができないので、本当にたくさんの方々からのご支援をいただいて渡米し、ドナーとなられた方のご遺族のご意思により娘の命を救っていただきました。病気の宣告をうけた3年前のことを思い起こすと、まことに信じられないような日々を送っております。
さて臓器移植法の改正について、私はA案の可決を強く望みます。
法が施行されて12年、これまでに81人の方から脳死下での臓器の提供があり、心臓については65件の移植がありました。
一方アメリカでは、心臓の移植はこの20年間、毎年2000件を越え、ヨーロッパでも1000件以上、アジアの韓国、台湾などでも年間の移植は日本の10倍ほどに増えています。
日本での心臓移植は多い年でも、年間11件にすぎません。毎日のように移植を待つ患者が亡くなっています。心臓病の人だけでもこの12年間で5千を越える患者が命を落としたと推定されています。
先進国の中にあって日本の移植医療の停滞はきわめて異常な事態です。そしてこの移植を阻む最大の障害は現行法の規定にあります。ドナーとなる人「本人の書面による意思の確認」をもって、法的脳死判定と移植への条件としているからです。
ドナーカードをもって意思を明らかにするということは大切なことだと思います。しかし長年の普及活動をもってしてもその所持・携帯率は2%にも足りません。
では国民の臓器の提供・移植に対する考え方はどうでしょうか。
内閣府の調査(2008年9月)では、44%もの人が「自分が脳死になったら臓器を提供したい」と答え、別の設問では6割を越える人々が、「本人の書面」がない場合に、臓器を提供するかどうかは「家族の判断に委ねるべきだ」と回答しているのです。
実は日本は、ドナーカードの普及率も、脳死に対する考え方も、臓器提供の意思も、各国と比べてそれほど隔たっているわけではありません。「書面による意思の確認」という現行法の規定だけが特殊なのです。世界中でこのような法を採っている国はありません。
日本の移植医療が進まないのは一部の人々がいうような「日本人独特の死生感」によるものではありません。世界の中で日本だけが採用している特異なルールが、臓器を提供してもよいと考える多くの人々の意思をないがしろにし、移植を待つ患者の希望と命を奪っているのです。
どうして家族の判断に委ねてはいけないのでしょうか。
「そういえばお父さんは……と言っていたわねえ」
「この子だったらきっとこうしてほしいと思うはずだわ」あるいは「こんな選択は望まないと思う」
家族は本人の意思を代弁したり、忖度したり、様々なことを考えて臓器の提供を申し出たり、そうしなかったりするのではないでしょうか。
いうまでもないことですがA案は、法的脳死判定を受けることも、受けないことも、臓器を提供することも、しないことも、すべての選択の自由を保障しています。
他の三案では、ドナーの数が増えることは全く期待できません。
A案が採択されなくては、さらに多くの移植を待つ患者が、そして不幸な病をもって生まれてくる未来の子どもたちが、命を落とすことになるのは明らかです。
臓器移植法は、移植によってしか救えない命を救うための法ではありませんか。
臓器の提供・移植について国民の意識を反映していない現行法を改正して、理不尽にも失われている命をどうぞ救っていただきたい。
このままでは、あまりに患者がかわいそうです。
2009年5月現在の日本臓器移植ネットワークへの移植希望登録者数は心臓、肝臓、腎臓などの患者をあわせて12,229人です。
全国の患者とその家族が固唾をのんで法案の行方を見守っています。
東京三鷹市 上田昌広 和子 さくら
投稿情報: 上田 昌広 | 2009/06/12 04:31
脳死による臓器移植とは、人の命を「脳」に限定することであり、臓器は単に部品と考えるものでしょう。
人を愛するとは「その人の脳を愛する」ことではありません。その人の全体であり、もっといえばその人の愛用の品々までがその人と同様に大切なものです。
チベット僧にとってダライ・ラマの写真を足で踏みつけさせられることはダライ・ラマその人を踏みつけさせられることなのです。
突然の事故で脳死状態になった我が子の体を切り裂いて臓器を提供して欲しいということ自体が残酷ではないでしょうか。
提供するしないは個人の自由とはいえ、臓器移植法が成立するとそれを拒否することが、移植を待っている人へ非協力な人と思われないかというプレッシャーがかかることもでてくるでしょう。
愛する我が子を救いたいというのは、臓器移植を待つ子の親も、突然我が子を失う親も同じです。
たとえ千分の一、いや万分の一でも生き返る可能性を、心臓が止まってさえも、たとえ無駄と分かっていても心臓マッサージをしてほしいのが親心です。
死にゆく命が、誰かを助けることができるというのは人間の情を無視した冷やかな論理です。
また、いかにも筋が通った話のようではあっても「命」とは?「人生」とは?「人間の幸福」とは?という人生の根本問題を見えなくしてしまうようにも思えます。
死んでゆく「命」を他の人に役立たせようという功利主義的な、役に立つものは何でも利用しようという人間の貪欲を感じます。
慎重に判断してください。
投稿情報: 武田昭英 | 2009/06/13 21:11